NEWS

ジェロントロジーに関する耳寄りな情報 第118回(ジェロ・マガ Vol.118[2025年11月11日]より一部抜粋)

このコーナーでは、ジェロントロジーに関連する、日々の生活や今後の生き方に役に立つ、あるいは「耳寄りな」情報をお届けいたします。

—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-+—-

今回は、陸井三郎についてご紹介したいと思います。陸井三郎はベトナム反戦運動に尽力した人物の1人です。陸井の幼少期はちょうど大正デモクラシー時代と重なり、リベラルな家庭環境で育ちました。青山学院の高等商学部を卒業後、太平洋協会という国策の研究機関に就職し、戦中を過ごしました。太平洋協会にはアメリカ研究の分室が設けられており、陸井はその研究会に参加し、室長の坂西志保や鶴見俊輔、都留重人といったアメリカ帰りの知識人と交流しました。こうした交流をきっかけに陸井のアメリカへの関心は高まりました。

また、原子力問題にも関心を抱いており、戦後は原水爆禁止日本協議会の専門委員として、反戦・反核運動に従事しました。この頃から国際会議を通じて、ベトナム民主共和国(北ベトナム)の人々と交流を持っており、こうした人的ネットワークが後のベトナム戦争犯罪調査にも活かされることになります。

ベトナム戦争は第二次世界大戦後、南北に分断されたベトナムを舞台にアメリカが軍事介入する形で開始されました。その過程で枯葉剤やボール爆弾のような非人道的な兵器の使用、村落での大量虐殺が繰り返され、このような動きを受けてアメリカや日本ではベトナム反戦運動が展開されました。陸井はアメリカの軍事行動を受けて、サルトルやラッセルなどのヨーロッパの知識人と連携し、アメリカの戦争犯罪を裁くべく1967年に国際戦争犯罪法廷(通称ラッセル法廷)を設立しました。そして、民衆法廷の様子をメディアで積極的に発言することで、反戦運動の発展に貢献しました。

陸井らが主導したラッセル法廷は以下の点で歴史的意義を持ちました。まず、当時は現在のように国際刑事裁判所(ICC)のような戦争犯罪を裁く場が国連に設置されておらず、ラッセル法廷はアメリカの戦争犯罪を俎上に載せたことが1つの歴史的意義です。加えて、当時のアメリカ政府は学校や病院、水利施設など民間施設への爆撃を意図的なものでないと否認していましたが、陸井らは科学的調査や戦争被害者、米兵の証言を積み重ね、一連の軍事活動が民間施設を意図的に狙った戦略的爆撃であることを証明し、これをジェノサイドと認定しました。さらに、ベトナム戦争における日本の「加害性」に焦点を当てたことも意義の1つです。米軍基地を保有する日本はアメリカの兵站支援の役割を担っており、ベトナム戦争による特需の恩恵を享受していた部分にも注目しました。1967年8月に開催された日本独自の民衆法廷「東京法廷」でその実態が明らかにされました。

当初、アメリカ政府はベトナム戦争に関する批判について無視していました。ラッセル法廷での判決はもちろん、国内外のメディアによる批判も無視もしくは誤報であると非難していました。しかしながら、戦局が拡大するにつれ、アメリカ政府は厳しい状況に置かれるようになります。まず、1969年にソンミ村虐殺(1968年3月に米軍が南ベトナムのソンミ村で民間人504名を殺害)が露見して以降、アメリカ国内でも軍事介入の道義性が問われるようになりました。そして、ベトナム戦争帰還兵により「冬の兵士調査会」が組織され、帰還兵がラッセル法廷で米軍の戦争犯罪を証言することで、ソンミ村虐殺が氷山の一角であること、虐殺がアメリカの戦争政策の帰結であることが明らかになりました。これにより、反戦帰還兵、現役兵によるアメリカの戦争犯罪告発の動きがより活発なものとなりました。

さらに、ジャーナリズムの方では1971年にNew York Timesがアメリカ国防総省の機密文書『ペンタゴン・ペーパーズ』を公開し、米軍によるベトナムへの不当な介入が明らかになり、当時のニクソン政権は窮地に追い込まれました。その後、1973年1月に調印されたパリ和平協定により、アメリカ軍の撤退が開始され、1975年4月のサイゴン陥落により、ベトナム戦争は終結します。ラッセル法廷を始めとした反戦運動はアメリカの世論に影響を与えることで、間接的に戦争終結へ貢献したと言えます。

今年はベトナム戦争終戦から50周年にあたりますが、現在もアメリカ政府はベトナムの戦争被害者への公式な謝罪は行っていません。当時のニクソン政権はベトナムへの復興援助を約束しましたが、1995年に米越の国交樹立交渉の過程でベトナムは戦後復興要求を取り下げています。枯葉剤被害については、米国国際開発局(USAID)がダナンやホーチミンで枯葉剤汚染土壌除去を行っているものの、第二次トランプ政権によるUSAID解体を受けて、このような援助プログラムの継続は困難と見られています。他方、アメリカでは市民レベルでベトナムの枯葉剤被害者への補償を行うよう、連邦議会に働きかける取組が行われています。また、トランプ政権がDEI(Diversity、Equity、Inclusion)廃止に動く中、アカデミアではジェンダーや黒人差別、マイノリティといったテーマに焦点を当て、アメリカ史を再評価する動きも見受けられます。多様性やジェンダーの問題はベトナム反戦運動で提起されたテーマであり、人種や国籍の枠を超えて各運動が共鳴し合ったことが反戦運動の残した成果と言えます。多様で開かれた社会の実現に向けて、今後アメリカでどのような議論がなされていくのか、引き続き注視する必要があります。

参考文献・資料
今井昭夫[2025]「盛大に催されたベトナム戦争終結50周年式典──トー・ラム書記長論文の注目点」『IDE スクエア– 世界を見る眼』
・NHK、2025.4.30、ベトナム戦争終結50年で式典“高い経済成長実現”と強調
・ガブリエル・コルコ[2001] 陸井三郎監訳・藤田和子・藤本博・古田元夫訳『ベトナム戦争全史』社会思想社
・藤本博[2014]『ヴェトナム戦争研究――「アメリカの戦争」の実相と戦争の克服』法律文化社
・藤本博[2016]「「ソンミ虐殺」の地におけるヴェトナム帰還米兵による「和解・共生」の試み: 「マディソン・クエーカーズ」(MQI)と現地ヴェトナム・コミュニティ」『立教アメリカン・スタディーズ』38
・藤本博・河内信幸編[2025]『ベトナム反戦運動のフィクサー 陸井三郎―ベトナム戦争犯罪調査と国際派知識人の軌跡』彩流社