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ジェロントロジーに関する耳寄りな情報 第89回(ジェロ・マガ Vol.89[2024年9月17日]より一部抜粋)

このコーナーでは、ジェロントロジーに関連する、日々の生活や今後の生き方に役に立つ、あるいは「耳寄りな」情報をお届けいたします。

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今回は、今年の5月29日に発表された研究ノート『少子高齢社会の遺骨の行方-死後の無縁化に関する一考察-』について、話題提供させていただきたいと思います。

『少子高齢社会の遺骨の行方-死後の無縁化に関する一考察-』は、大正大学地域構想研究所の2023年度紀要「地域構想」第6号で大正大学 地域構想研究所研究員で僧侶の小川有閑氏と寺院支援を介して地域社会への貢献を目指すせいざん株式会社の取締役池邊文香氏の共著により発表されました。

都市部への人口流出増、核家族化、少子高齢化、非婚化、離婚の増加といった人口・世帯動態の変容を背景に、都市部・地方部に限らず生じている社会的な問題として「引取人のいない死亡者」の増加があり、そして「継承不要」の墓のニーズが高まりを見せています。筆者はこの状況を「死後の無縁化」という言葉を用いて、現場で生じている課題とともに人が死後も誰かに偲ばれる「弔われる権利」を守るために寺院(宗教法人)が手を差し伸べるべきではないか、という可能性を提示しています。

研究ノートでは、2023年3月に総務省行政評価局が公表した「遺留金等に関する実態調査結果報告書」をもとに、引き取り手のない遺骨が増加していること、そのことにより行政の負担*が増加していくことを提起しています。

*埋火葬を行う者がいない又は判明しない(=遺体の引き取り手がいない)ときは、「行旅病人及行旅死亡人取扱法」または「墓地、埋葬等に関する法律」、また「生活保護法」に基づき行政が対応することとされています。

また、人口・世帯動態の変化とそれに伴う供養の価値観の変化により、継承を前提としない形態の墓へのニーズが高まっているものの、墓地運営者の経営指針と管理体制、また契約手続きの不統一や不備といった観点からの課題が挙げられています。
★仮定の話…独身・子なし・頼れる身内のない私が、老後に備え永代供養墓を生前に契約したとして、死後、「誰が」遺骨をその永代供養墓に持って行ってくれるのか?対策の手立てはいくつかあるものの、この点が欠落している場合が多いことに言及しています。

そのうえで著者は、今の日本の実情が「故人と血族及び婚姻による関係性を有する者だけが、故人の弔いに関する決定権を持っている」とし、「弔い手を家族・親族に限定することで、弔う権利を
奪っている状況とも言えるのではないだろうか」と訴えています。
家族のあり方も多様化し、長く共同生活をしている事実婚のパートナー(LGBTQ含む)や友人、仕事仲間、コミュニティの仲間の方が「家族よりも家族」であるというケースは十分考えられます。他方で法的にその関係は「家族・親族」ではないため、遺体や遺骨を引き取り、弔いたいと思ってもそれができない・難しい状況が生じ「無縁化」を招いてしまうこと、また、遺された人が大きなグリーフ*を抱え、そのグリーフと向き合う機会としての故人への供養を奪うことにより生じるリスクを懸念しています。

*グリーフ(悲嘆)、グリーフケアについては大阪府豊中市のWEBサイトで解説されています。

さらに著者は、「無縁社会」を嘆く前に、法的な「家族・親族」以外にも故人と深い縁を持つ人々がいること、そしてその人々の「弔う権利」にも焦点を当て、「誰しもが弔いたい人を弔える仕組み」を、墓地運営側の規定面と法的な側面から検討する必要性を述べています。また、「弔う権利」を開かれたものにするために、
地域の寺院(宗教法人)が主体となることを期待し、研究ノートは締めくくられています。

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一部の地域では、地域包括支援センターが僧侶の方を招き勉強会を開催しているといった話も耳にします。また北九州市で困窮・孤立者の生活再建を支援するNPO法人抱樸では「互助会葬」として、お見送りの集いや、先立った仲間を追悼する「偲ぶ会」が年に1回行われています。
(「開かれた弔い」を象徴するような取組です)

こうした取組やこの研究ノートは、第3者的視点による引き取り手のない遺骨の「対応」に留まらず、死してなおその人の尊厳を守る「営み」が大切であることを示唆してくださっているように思います。

この研究ノートのメッセージは、主に寺院(宗教法人)に向けられたものではありますが、今の社会において「弔うとは何か」「弔われるとは何か」、例外なく生と死の当事者である私たち1人ひとりが考え、その問いそのものが、もっと社会に開かれていっても
よいのではないかと考えるところです。